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どうする日本語

更新日:1月4日

 拙著「日本語が崩壊する日」 (副題/純日本語を世界無形文化遺産に)を上梓してほぼ4年半が経つ。 

 今でも「外頼語」(日本語の存在を無視軽視し「外国語に頼る語」のことで、小生の造語で、俗にカタカナ英語と呼ばれていることばを指している)による日本語の侵略による日本語の衰退、崩壊、消滅を憂い、その動向には目が離せないでいる。

 1981年9月、9年半に及ぶ米国駐在を終えて日本に帰国した。その時、久しぶりに目にした日本の日本語新聞(駐在していたロサンジェルスにも羅府新報という日本語が在ったが、「外頼語」を多用乱用はしていなかった)に目を通して驚いた。カタカナ英語、つまり「外頼語」の数は、9年半前に比べると格段に増えていたからだ。50年後、日本語は消滅しているのではないか。そうなっていたとしても、決しておかしくないし、驚かない。

 今、「外頼語」の大氾濫が止まらない。世界中で唯一日本語が母語とされる日本で、日本人の母語であるはずの日本語が、「外頼語」の侵略を受け、破壊され崩壊の危機にさらされている。留まるところを知らない「外頼語」の横暴振りは、いずれは日本語の消滅に繋がり、残るのは日英混成語であるに違いない。今日もこんな「外頼語」の使い方を耳にした。東京の歌舞伎町に新設された歌舞伎町タワーの中で生演奏が楽しめるある階の説明で、シーティングが○○人分でスタンディングが××人分と述べていた。従来なら椅子席と立ち(見)席くらいの表現であったに違いないのだが。

 こんな調子で、とにかく「外頼語」を当然のように使い、平然と日本語を無視軽視する。しかも、残念ながら、そうした行為をしていることに気付くことも無い。ほぼ無意識に、日本語をカタカナ英語に置き換えているだけで、何も考えていないのだ。

 何故そうなってしまったのか。けっして、母国語を無視軽視すると言った積極的な意図からではないとすれば、時代の風潮からくる新もの食いの発想からか。また、軽薄短小に通じる感覚にも通じるが、あの格好良さとお洒落感を求められる感性がそうさせるのか。そして行き着くのは、ほぼ何事をするにも日本人の底流にあるあの思想。

 日本が、今から150年以上も前に開国して以来染みついた舶来品崇拝と西洋かぶれの名残(なごり)なのだろうか。何しろ、日本的なものは、言葉といえども何となく古臭くて、不細工で、ダサいものに思えてしまうらしい。となれば、発する言葉も自ずから現代風、つまり洋物にならざるを得ない。日本人相手に、俄然、純粋な日本語ではなく「外頼語」が優先されることになるのである。理由はそこにあるのだ。

 「外頼語」の便利さと楽さ加減を知ってしまった今の日本人の燥(はしゃぎ)様は半端ではない。何しろ、小難しくて複雑な漢字とは無関係の「外頼語」には、様々な利点がある。何と言っても、カタカナだけで済む容易さ、簡単さは日本語の比ではない。効率を好む現代人にとっては、願ってもないことである。まるで漢字の呪縛から解き放たれた喜びを謳歌するかのように、「外頼語」を喜び、浮かれ、楽しんで駆使しているかのようにも見えてくる。 


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